【広報ニュース】神奈川縣下外國人遊歩規程測量の研究 その3 ~明治の痕跡を求めて~

神奈川縣下外國人遊歩規程測量の研究 その3 ~明治の痕跡を求めて~

測点番号33、40を発掘!!

 平成29年10月17日の火曜日、昨年に引続き横浜北支部の田村佳章会員を中心としたグループによる三角点の発掘調査が行われました。  当日はあいにくの雨でしたが午前中に「測点番号40」が、午後には「測点番号33」の標石が新たに発掘されました。  なお、今までに行われた調査結果については過去の取材記事をご覧ください。また、測点番号40については、発掘の様子を動画撮影しています。

「神奈川縣下外國人遊歩規程測量の研究 その1」はこちら。 「神奈川縣下外國人遊歩規程測量の研究 その2」はこちら。 測点番号40発掘の様子はこちら

                              (広報部)

【測点番号40の調査結果】 周囲の状況  測点は吾妻山の山頂にあります。周囲は二宮町が管理する「吾妻山公園」として整備されています。

探索の方法 ①器械点、方向点の設置  ・吾妻山の山頂にある三等三角点、山西を器械点とし、そこから約62m離れた位置に   方向点を設置、それぞれをVRS-RTK-GPS測量(以下、GPS測量)で観測、   公共座標値を算出しました。なお、探索のための逆打ち、標石の測量結果の計算には   三角点の成果ではなく、GPS測量で算出した座標値を用いています。  ・観測は20エポックの5回観測とし、1回観測するごとに初期化しています。  ・計算に用いる器械点、方向点の座標値は5回の平均値としました。

②予測した座標値で逆打ち、探索   標石は公園内の遊歩道脇の地中約60cmの位置にあり、蓋石はありませんでしたが、   地中に埋まっていたため、保存状態は良好でした。

③標石の測量   測量により得られた標石の座標値と予測した座標値との差(点間距離)は   0.205mでした。   予測した座標値 X=-77570.363 Y=-53055.536   実測した座標値 X=-77570.405 Y=-53055.335

標石の観測が終了し、埋め戻しているところ(左側の2名)。偶然なのか遊歩道が標石を避ける形で造成されたため、標石は亡失することなく、よい状態を保っていました。 また、標石が地中に埋没していることから、盛土されていることがわかります。 展望台から太平洋を望む。 周囲や遠くの市街地は時代とともに大きく変貌していますが、太平洋の眺めは変わりません。明治新政府の測量技師たちはどのような気持ちで太平洋を眺めたのでしょうか。

【測点番号33の調査結果】 周囲の状況  測点は平塚市が管理する「高麗山公園(子供の森)」内にあります。測点番号33は事前の情報収集で、蓋石のみが放置されていることが確認されています。

探索の方法 ①器械点、方向点の設置  ・蓋石が放置されている場所(近傍に標石の存在が予想される場所)は樹木に覆われ上空   視界が確保できないため、近くの広場にGPS測量により器械点と方向点を設置しました。   公園内は樹木が多く、器械点と方向点の点間距離は約18.5mしか確保できませんでした。  ・観測は20エポックの5回観測とし、1回観測するごとに初期化しています。  ・計算に用いる器械点、方向点の座標値は5回の平均値としました。

②放射トラバースによる多角点の設置  ・放置された蓋石の近傍に放射トラバースで多角点を1点設置しました。  ・逆打ちのため、半対回の観測で暫定座標値を算出しました。  ・対回観測も併せて行い、後日改めて多角点の正式な座標値を算出しました。

③予測した座標値で逆打ち、探索   蓋石から15mほど離れた場所の地中約40cmに標石を発見することが出来ました。   蓋石は外されていましたが、地中に埋まっていたため、保存状態はきわめて良好でした。

④標石の測量   測量により得られた標石の座標値と予測した座標値との差(点間距離)は   0.338mでした。   予測した座標値 X=-75093.983 Y=-47954.902   実測した座標値 X=-75093.960 Y=-47954.565

標石を観測しているところ。周囲は植林され、見通しはよくありません。GNSS(GPS)測量もできず、約67メートル離れた広場で観測しました。 標石から離れたところに放置されていた蓋石は、元通り標石上に戻しておきました。

【測点番号33、測点番号40の測量結果】 ・器械点、方向点(測点番号33、測点番号40)のGPS測量結果はこちら。 ・三等三角点、山西の成果座標値とGPS測量による座標値との差はこちら。 ・測点番号33の発掘状況略図はこちら。 ・測点番号40の発掘状況略図はこちら

 今回の調査では標石の向きを調べるため、中心だけでなく約30センチ四方(1尺四方)の標石の4隅も測量しています。

調査を終えて 今回の調査で以下の点が判明しました。

 ・標石の文字が着色されていた   測点番号33、測点番号40の標石は共に、文字部分と中心を表す×印に   赤色(朱色)の塗料が残っており、設置時は文字と×印が赤色(朱色)に   着色されていたのは間違いないようです。  ・標石により字体が違う   測点番号33は「測点」の「点」が異体字でした(「灬」が「火」)。   測点番号40は「号」が異体字でした(「号」に「乕」)。   字体についてはこれまで注目していませんでしたが、   「号」に「號」を用いている標石もあるようです。

測点番号33 測点の「点」が異体字になっています(「灬」が「火」)。 毎回、標石の大きさ(約1尺四方)には驚かされます(地中部分はさらに大きい)。おそらく人力で運搬したものと思われますが、当時の苦労を想像すると頭が下がります。 測点番号40 「点」は異体字ではなく、通常の「点」ですが、「号」が異体字になっています(「号」に「乕」)。 字体が違うということは、製作者が違うということを意味しています。運搬手段が発達していない当時、運搬の手間を考え、測点の近くの石工にそれぞれ発注したのでしょうか。

今後の調査予定  今後も未発見の標石の発掘調査を継続する予定です。

調査でお世話になった方  平塚市 都市整備部 みどり公園・水辺課  二宮町 都市部 都市整備課 公園緑地班

参加者(あいうえお順) 神奈川会会員  岩倉 弘和 会員(湘南第一支部)、大竹 正晃 会員(川崎支部)、  河本 善行 会員(相模原支部)、竹前 信行 会員(湘南第二支部)、  田村 佳章 会員(横浜北支部)、露木 文子 会員(県央支部)、  中川 裕久 会員(相模原支部)、平田 義昭 会員(横須賀支部)、  細川 英史 会員(湘南第一支部)

他会会員  松原 浩子 会員(東京会)、三嶋 元志 会員(東京会)、  渡見 文雄 会員(東京会)

【参考】国土地理院の前身、「地理寮」の歴史 ~地理寮から陸地測量部へ~  測量による三角点などの成果は国土計画になくてはならないものであると同時に、重要な軍事情報でもありました。  ですので、明治初期には内務省主導の測量と、陸軍主導の測量に分かれていた時期があり、地理寮は内務省系の測量機関です。  現在は国土地理院に一本化されています。

1871年(明治4年) 工部省がマクヴィーン(イギリス人)の指導を受けて           東京府下三角測量を実施。           兵部省に陸軍参謀局を設置(陸軍系の測量機関が発足)。 1873年(明治6年)  内務省設置。 1874年(明治7年)  内務省地理寮が発足(内務省系の測量機関が発足)。 1875年(明治8年)  東京府下三角測量は内務省地理寮の所管となる。 1877年(明治10年) 内務省地理寮を内務省地理局と改称。 1878年(明治11年) 陸軍省参謀局が廃止され、参謀本部地図課・測量課に改称。 1884年(明治17年) 陸軍参謀本部測量局に測量は引き継がれ一等三角測量が開始される。            しかし、内務省の測量はごく一部を除き利用されなかった。           (陸軍系と内務省系の三角測量はここで統合される)。 1888年(明治21年) 陸軍参謀本部測量局は分離して本部直属の陸地測量部となる。

(記事・写真 相模原支部 中川 裕久) (監修 横浜北支部 田村 佳章)

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